土
16
4月
2011
フィリップ・K・ディックに続いて、SF作家が書いた小説なのに、SFらしくない小説を取り上げます。アメリカの作家ジョン・ヴァーリィの「PRESS ENTER■」(1984)です。
まず、この小説がすごいことは、SF分野の著名な賞を総なめにしていることからもうかがえます。SF雑誌に発表された翌年の1985年にヒューゴー賞(中長編小説部門)とネビュラ賞(中長篇小説部門)、ローカス賞(ノヴェラ部門)を受賞し、1987年には日本の星雲賞(海外短編部門)までかっさらいました。ちなみに、世界的にもっとも著名なのが最初の二つで、ヒューゴー賞はファン投票によって選ばれ、ネビュラ賞はアメリカSFファンタジー作家協会に所属の作家、編集者、批評家などが選びます。ヒューゴー/ネビュラ両賞を同時受賞した作品は「ダブル・クラウン」と呼ばれているそうです。
ですから正真正銘のSF作品なのですが、実はストーリーはまったくSFらしくありません。というより、宇宙人もロボットも怪物も出てこないし、ディックが大好きなパラレル・ワールドものでもない。舞台は現代アメリカ、それも西海岸のアパートメントの一室。主人公のヴィクターによって、隣室に住んでいるクルージという男がコンピューターのキーボードに顔をくっつけて,側頭部を吹き飛ばされて死んでいるのを発見されます。刑事も駆けつけて捜査するけれど、どうやらコンピューターを駆使してアパートの住人全員のプライバシーを詮索していたことがわかるぐらいだけ。遺書らしきものは、コンピューターを操作してようやく出てきた、表題が「さよなら現実世界」というプリント群。そのコンピューターの空色の画面には黒い文字が。
TO RUN
PRESS ENTER■
(実行するには、エンター・キーを押してください)
そう、最後の■は点滅しているカーソルのこと。こうして不気味な物語は幕を開けるのです。
刑事から依頼されてリサというベトナム系の若い女性が登場し、部屋に残された一台のコンピューターと格闘し始める。カリフォルニア工科大の「大天才」ということで大学から派遣された彼女は、死んだ男が実はハッカーで、近所のスキャンダル探しどころか、あらゆる国家機関の機密情報まで探り、好きなようにデータを書き替えたり抹消したりしていたことを探り当てる。
このクルージの死という謎と、主人公ヴィクターとリサの間に急速に芽生える恋愛が絡まりあいながら、物語は進行します。その過程で、ヴィクターにはかつて北朝鮮で捕虜になって洗脳教育を施されたという暗い過去があり、リサにもまた南ベトナムの崩壊後逃れたカンボジアでポル・ポト派の大量虐殺を生き延びた過去があることが描かれます。
以下、短編集「ブルー・シャンぺン」(ハヤカワ文庫SF、品切れ)に収められている風見潤訳から引用します。リサがいつものようにコンピューターを格闘しながら、でも顔色がよくないことに主人公が気づく場面からです。
(風見訳)彼女は大きなプラスチックのゴミ箱とソフトボールほどもある磁石を手にしていた。わたしは、彼女が磁石のそばでテープを振りまわし、それからゴミ箱に放りこむのを見つめた。
(略)
「すべてを消そうというじゃないんだろうね?」
「ええ、わたしは記録を消しているの。それと、、、あるものをね」
「それが何だか教えてくれるかね?」
「この世には、知らないほうがいいこともあるのよ」彼女は陰気な声で言った。
夕食を食べながら話をしようとなんとか説得したのだが、彼女はほとんどしゃべらなかった。ただ食べ、首を振るばかりだった。だが、ようやく折れて、
「まったく恐ろしいことよ」と言った。「この数日、ある微妙な場所を探っていたの。クルージは自由気儘に訪れていたところだけど、わたしは心の底から震えあがってしまったわ。薄汚い場所よ。わたしが見つけたいと思っていたものがある場所」
彼女は身震いした。それから先はしゃべりたくない様子だった。
「軍のコンピューターのことかね? CIAとか」
「CIAは初歩だわ。いちばん簡単だった。わたしは北米防空宇宙防衛司令部をのぞきこみーー次の戦争を用意している連中がいたわ。クルージがそこに簡単に入りこめたことがわかって、わたしは震えあがったわ。彼は第三次世界大戦を始める道を作っていたのよーーただの練習問題として。わたしたちが消したものの中にそれもあったわ。この二日、わたしは大物のはしっこを齧っていたの。国防情報局とか国家安全、、、、なんとかってやつとかね。DIAとNSAっていうやつ。どっちもCIAより大きいわ。わたしがそこにいることに何かが気づいた。番犬プログラムが。わたしはそれに気づくとすぐに後退したわ。この五時間というもの、そいつが追ってこないことを確認していたの。やっと確信がもてたので、すべてを破壊したってわけ」
「クルージを殺したやつらだと思う?」
「最重要容疑者ね」
ブルー・シャンペン
途中出てくる「この世には、知らないほうがいいこともあるのよ」は、原文で”There are things it's better not to know."で、この直後もういちどあって、いよいよ怖い場面がそろりと出てきます。
(風見訳)情報が消えていくのを見るのは、ほとんど楽しかった。わたしのなかには昔ながらの反発があったが、”世の中には知らないほうがいいものも存在する”(清水注=原文はThere Are Things We Are Not Meant To Know.)という言葉が容易に信じられた。
ほとんど終わったとき、モニター・スクリーンが動作不良をおこした。二、三度ブーン、パチパチという音をだした。そこでリサはしばらくスクリーンから離れた。やがてスクリーンが瞬きはじめた。わたしはしばらくスクリーンを見つめていた。スクリーンのなかでは一つの映像が形をととのえつつあるように見えた。立体的な何かが。それがはっきりと摑めそうになったとき、彼女はわたしに近づき、両手でわたしの眼を覆った。
「ヴィクター、見ないほうがいいわ」
このあと、とてもとても衝撃的かつ悲劇的な場面になるのですが、さすがにこのネタバレだけはできません。品切れの本ですが、一読の価値は絶対ありますので、中古本を手に入れるか図書館で探すかして、ここからの十数ページはご自分の目で確認してください。
さて、その衝撃的場面のあと、主人公は最初に登場した刑事オズボーンとともに、もういちどクルージの部屋を訪ねます。
(風見訳)わたしたちは居間に戻った。一台のコンピューターのスイッチが入っていた。スクリーンに短いメッセージが出ている。
IF YOU WISH TO KNOW MORE
PRESS ENTER■ (もっと知りたかったら、エンター・キイを押してください)
「やめろ」
わたしはオズボーンに言った。だが、彼は押した。彼はまじめくさった顔で瞬きをした。文字が消えて、
このあともネタバレなので割愛します。前にブログで取り上げた日本映画「(ハル)」が、メールの文面を通じて育まれる恋愛感情を表しているように、ヴァーリィの「PRESS ENTER■」ほど、パソコンの文字だけで恐怖の感情を掻き立てる小説を読んだことがありません。
ヴァーリィが描きたかったのは、「すべては傍受されている」(角川書店、品切れ)というノンフィクションもあるNSAのような国家機関の怪しさととらえるのは違うように思います。やはり巨大ネットワーク社会の登場によって生まれた、誰とでもどこでもつながっていることの居心地の悪さを描きたかったのではないでしょうか。
いま、コンピューター・ネットワークを通じて大量にウイルスがばら撒かれ、トロイの木馬型のように、持ち主の知らないところで自分のコンピューターに悪さをしているかもしれない。それどころか、ウイルスに操られて自分のコンピューター「が」悪さをしていることだってある。時折ニュースをにぎわすDOS攻撃もまたネットワーク社会が可能にしたものです。
「PRESS ENTER■」が描く恐怖は、だからSF(空想科学)ではなく、リアルなものなのです。そうやって読むと、この小説の怖さはいっそう際立ってくるように思うのですが、いかがでしょうか。