10

4月

2011

ディック的悪夢の世界:地図にない町

「ディック的悪夢」という言葉を聞いたことがあるでしょうか? アメリカのSF作家フィリップ・K・ディック(Philip K. Dick 1928-1982)が自身の小説で取り上げた「本物か、偽者か」というテーマ、というのが通り相場でしょうか。きょうは、その典型的な「悪夢世界」を描いていて、かつボクにとって一番思い出深い「地図にない町」(原題: The Commuter)について書きたいと思います。

フィリップ・K・ディック

まずは、フィリップ・K・ディックと言っても知らない人も少なくないでしょうから、彼の簡単な経歴と作品の紹介を。すごくかいつまんで言えば、1950年代に数々のSFの短編小説を書きまくり、60年代に入ってようやく出世作を上梓し(たとえば、映画「ブレードランナー」の原作「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」)、70年代には哲学的なSFを出すようになったので、年代によって好みが分かれるところがあって、ボクの場合は(根が難しい話を受け付けないのか)50年代に量産された短編が圧倒的に好きです。

 

ただ、初期から晩年まで共通するのが、「実は我々が現実と思っているものは虚構ではないのか」というテーマです。ブレードランナーをご覧になった方はわかると思いますが、人間と寸分変わらぬ精巧なアンドロイドを追いかけ戦ううちに、アンドロイドと人間お違いは何なのかわからなくなる男が主人公でした(確か映画にはなかったと思うけど、原作では、主人公自身、自分が本当に人間かどうか確信を持てなくなり、機械でチェックする場面が出てきました)。

 

彼の作風について、ウィキペディアにこう書いてあります: ディック作品は、「現実」というものの脆さと個人のアイデンティティの構築をテーマとすることが多い。何らかの強力な外部の存在によって、あるいは巨大な政治的陰謀によって、あるいは単に信頼できない語り手の変化によって、日常の世界が実際には構築された幻影だということに主人公らが徐々に気づき、超現実的なファンタジーへと変貌していくことが多い。こうした「現実が崩壊していく強烈な感覚」は「ディック感覚」と呼ばれている。

 

そうそう、これこれ! この「現実が崩壊していく強烈な感覚」が彼の作品の真骨頂なのです。

地図にない町

ボクが一番最初に読んだディックの本は、仁賀克雄編訳の「地図にない町」(ハヤカワ文庫NV)でした。高校1年のとき、友人の一人が「おもしろかったゼ!」と薦めてくれて、以来、はまってしまいました。もうカバーがボロボロになった本の奥付をみると、昭和51年(1976年)発行の初版なので、出版されてすぐに手にとったようです(今回ブログで取り上げるために確認して初めて知った!)。

 

訳者があとがきにこう書いています。「翻訳者として、その冥利に尽きる作品というものはめったにあるものではない。本書はその珍しい例である。とにかく僕は、いまここに収録した短編を、自分の手で翻訳して、読者の方々にお目にかけるのが、うれしくてたまらない。それほど僕は、この作家の初期の短編に惚れこんでいるのだ」「『薄明の朝食』『森の中の笛吹き』『地図にない町』といった佳作は、初めて読んだ時にぞくぞくするような面白さに惹かれ、こんな佳作がまだ訳されていないという不運ーー僕にとっては幸運を喜び、すぐにでも訳して同好の読者に読んでもらいたいという衝動にかられた」、、、。

 

その後、同じく仁賀克雄訳「人間狩り」(ちくま文庫)、浅倉久志訳「模造記憶」(新潮文庫)など、ディックの短編集はかなり手に取りましたが、やはり、一番最初の衝撃が大きかったようで、僕にとってディックとは「地図にない町」なのです。

 

さて、前置きが長くなってしまいました。同書の表題作「地図にない町」を紹介しましょう。

 

主人公は駅員のボブ・ペイン。あるとき、同僚が通勤客からメイコン・ハイツ行きの切符を求められる。けれども、そんな駅名は聞いたことがない。「お客さん、メイコン・ハイツなんてありませんよ。ありもしない駅の切符は売れません」「それはどういうことだ? 私はそこに住んでいるんだぞ!」と押し問答しているうちに、通勤客が忽然と姿を消してしまう。この不可解な現象をペイン自らも経験したため、メイコン・ハイツについて調べると、かつて3つあった住宅開発計画で、1つだけ州議会で反対票が賛成票より1票勝って承認されなかった町の名がメイコン・ハイツだった。しかも、自ら列車に乗ってみると、2つの開発済みの町の間に、確かにメイコン・ハイツ駅が存在し、降り立つことができてしまった、、、。

人間狩り

(仁賀訳)ペインは不安そうに額をこすった。本当とは思えなかった。おそらく彼は正気を失っていたのだろう。町は実在しているのだ。まちがいなく現実のものなのだ。それはいつも存在していたにちがいない。(略) 痛いほどの実感に、彼は慄然とした。不意に彼にはすべて理解できた。それは拡がっているのだ。メイコン・ハイツの向こうへも。自分の町の中へも。自分の町も変化しつつあるのだ。

 

(原文)Paine rubbed his forehead wearily. It didn't seem possible. Maybe he was out of his mind. The town was real. Completely real. It must be have always existed... Stabbing realization chilled him. Suddenly he understood. It was spreading. Beyond Macon Heights. Into this city. The city was changing, too.

 

ここからがディック的悪夢なのですが、それを知ってもらうためには、どうしてもネタバレが避けられません。その点をあらかじめ断っておきます。

 

ペインは、存在しないはずの町が存在し、それが現実世界に浸食しているのだとしたら、、、と考えて、はたと気づく。妻のローラがいる元いた自分の世界もまた、今まさに塗り替えられようとしているのではないか?

 

彼は恐怖に囚われた。ローラ、自分の財産、計画、希望、夢。もうメイコン・ハイツのことは眼中になかった。自分の世界が危機にあった。(Fear gripped him. Laura, all his possesions, his plans, hopes and dreams. Suddenly Macon Heights was unimportant. His own world was in jeopardy.)

 

急いで駅に向かい、タクシーに飛び乗って、焦燥の念をいっぱいにしてアパートに向かった。

 

以下、この短編のラスト部分まで、全文を掲載します。本当の、本当のネタバレなので、いやそれは困る!という方は読まないように。そして、品切れ本なので中古本を買い求めて続きを読んでください。また、このブログを読んでディックの小説を気に入ったら、ほかの作品もぜひ手にとってみてください。オススメは、どちらもやはり品切れですが、「人間狩り」と「模造記憶」です。前者は、「変種二号」という訳名のほうが有名ですが、表題作の「人間狩り」が秀逸。後者は、「この卑しい地上に」がベスト。これも「地図にない町」に似て、世界が塗り替えられていくスピードと、それから必死に逃れようとする主人公のチェイスが圧倒的です。

 

では、「地図にない町」のラストシーン、仁賀訳と原文でお楽しみください。

模造記憶

ペインは入口の石段を駆け上がると、アパートのドアを押し開けた。彼はカーペット敷きの階段を二階へ急いだ。アパートのドアにはカギがかかっていなかった。押すと開いたので中へ入った。彼は心の中でひそかに祈った。

 

リビング・ルームは暗くひっそりしていた。シェイドは半分下りていた。彼は狂ったようにあたりを見回した。明るいブルーの長椅子の袖に雑誌がのせてある。ブロンド・オークの低いテーブル。テレビのセット。だが部屋には人影はなかった。

 

「ローラ!」彼は絶叫した。

 

台所から驚きに目を見張ったローラがとびだしてきた。「ボブ! 家の内で何をしているの? どうかしたの?」

 

ペインはほっとすると同時に、安心感でぐったりした。「ああ、いたのか」彼はしっかりと彼女を抱きしめキスした。彼女は暖かく、どっしりとしていた。完全に実在していた。

 

「いや、何でもない。たいしたことじゃない」

 

「ほんとうかしら?」

 

「ほんとうだとも」ペインは上衣を脱ぎながら、身体が慄えていた。上衣は長椅子の背に投げ掛けた。それからゆっくりと部屋の中を見てまわり、家具調度を改めた。彼には自身が甦ってきた。見なれた青い長椅子の袖にはタバコの火がついてのっている。古いぼろの足台もある。夜仕事をする机もある。釣竿も書棚の後ろの棚にたてかけてある。

 

大きなテレビはつい先月買ったばかりのものだ。それも無事だ。

 

彼の持物はすべてまだ影響が及んでいない。安全だ。どこもそこなわれていない。

 

「夕食まであと三十分待ってね」ローラはまだ心配そうに小声でいうと、エプロンをはずした。

 

「こんなに早くお帰りになるとは思わなかったわ。一日中留守番していたのよ。ストーヴを掃除したり、セールスマンがきて、新しいクレンザーを置いていったりして」

 

「わかったよ」彼はお気に入りのルノアールの複製画を改めた。「ゆっくりやれよ。ともかくみんな無事でよかった」

 

その時、寝室から泣き声が聞こえてきた。ローラはすぐそちらをふりかえると、「ジミーが目を醒ましたらしいわ」といった。

 

「ジミー?」

 

ローラは笑いだした。「ダーリン、あなたは自分の子供も憶えていないの?」

 

「いや、憶えているよ」ペインはつぶやきながら心配になった。彼はローラのあとについてゆっくり寝室へ入って行った。「ほんの一瞬だけ、すべてが変わっているように思えたんだ」彼は額をこすった。そして眉をひそめた。「奇妙で見なれないものにね。一種の焦点ぼけかも知れない」

 

二人は幼児ベッドのそばに立って、赤ん坊を見下ろした。ジミーはじっとママとパパを見返した。

 

「きっと太陽のせいよ」ローラはいった。「外はすごく暑いんですもの」

 

「そうだな。もうよくなったよ」ペインはかがみこむと、赤ん坊を軽く突っついた。それから妻の身体に両腕をまわすと、自分の方へ抱き寄せた。「たしかに太陽のせいだ」彼はいった。

 

彼はじっと彼女の眼をのぞきこむと、にっこりと微笑んだ。

We Can Remember It for You Wholesale

Paine raced up the front steps and pushed open the door of the apartment house. He hurried up the carpeted stairs to the second floor. The door of the apartment was unlocked. He pushed it open and entered, his heart in his mouth, praying silently.


The living room was dark and silent. the shades were half pulled. He glanced around widely. the light blue couch, magazines on its arms. The low blond-oak table. The television set. But the room was empty.

 

"Laura!" he gasped.

 

Laura hurried from the kitchen, eyes wide with alarm. "Bob! what are you doing home? Is anything the matter?"

 

Paine relaxed, sagging with relief. "Hello, honey." He kissed her, holding her tight against him. She was warm and substantial; completely real. "No, nothing's wrong. Everything's fine."

 

"Are you sure?"

 

"I'm sure." Paine took off his coat shakily and dropped it over the back of the couch. He wandered around the room, examining things, his confidence returning. His familiar blue couch, cigarette burns on its arms. His reagged footstool. His desk where he did his work at night. His fishing rods leaning up against the wall behind the bookcase.

 

The big television set he had purchesed only last month; that was safe, too.

 

Everything, all he owned, was untouched. Safe. Unharmed.

 

"Didner won't be ready for half an hour," Laura mattered anxiously, unfastening her apron. "I didn't expect you home so early. I've just been sitting around all day. I did clean the stove. Some salesman left a sample of a new cleanser."

 

"That's OK." He examined a favorite Renour print on the wall. "Take your time. It's good to see all these things again. I--"

 

From the bedroom a crying sound came. Laura turned quickly. "I guess we woke up Jimmy."

 

"Jimmy?"

 

Laura laughed. "Daring, don't you remember your own son?"

 

"Of course," Paine murmured, annoyed. He followed Laura slowly into the bedroom. "Just for a minute everything seemed strange." He rubbed his forehead, frowing. "Strange and unfamiliar. Sort of out of focus."

 

They stood by the crib, gazing down at the baby. Jimmy glared back up at his mother and dad.

 

"It must have been the sun," Laura said. "It's so terribly hot outside."

 

"That must be it. I'm OK now." Paine reached down and poked at the baby. He put his arm around hid wife, hugging her to him. "It must have been the sun," he said. He looked down into her eyes and smiled.

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